History

 

 

2000年 中東研究会 創大祭展示 A324

「中東和平〜エルサレムを求めて〜」

 

はじめに

             世界中で今もっとも危険な地域のひとつとして中東地域が挙げられるだろう。頻繁に争いが起こる要因として、

            イスラエルという国の存在が考えられる。1948年にイスラエルが建国されて以来、4度にわたる中東戦争を

            はじめとして数々の血で血を洗う紛争が、アラブ−イスラエル間で繰り広げられてきた。しかし、当事者たちも

            武器を手に取りつつも平和を渇望しているであろうことは想像に難くない。つい先日まで、アメリカを仲介として

            パレスチナ−イスラエル間で和平交渉が開かれていたことからも、そのことは、明らかである様に思える。

             そこで、我が中東研究会では過去の歴史を振り返り、戦争の残酷さ悲惨さを私たちに教えてくれた中東戦争

            と、残念ながら交渉決裂してしまった中東和平のことを調べ、自分たちなりの中東和平へのプロセスを考えてみ

            ることにした。

 

背景

             アラブ分割政策(アラブのユダヤ教徒を〈ユダヤ人〉として扱い、これを非ユダヤ教徒としての〈アラブから切り離

            す)と独特の植民地主義(世界のユダヤ人すなわち離散の地のユダヤ人のパレスチナ植民を国際的に組織する)

            とを結合させるシオニズム運動(1948年以降はイスラエル国家)と、これを19世紀の東方問題に代わる20世紀

            の中東支配・管理のための基軸的装置として利用しようとした強国(バルフォア宣言から第2次世界大戦までは

            イギリス、第2次世界大戦以後は主としてアメリカ)の政策とが、からみあってつくり出してきた国際的・社会的紛

            争である。

             そこでは、絶えず〈アラブ〉対〈ユダヤ人〉、さらにアラブ諸国対イスラエル(中東戦争における構図)という対抗関

            係の枠組みによる割切りが押しつけられ、また、棄民としてのユダヤ人のパレスチナ導入がパレスチナのアラブ

            の棄民としての排除をもたらすという形式で、国際的連関構造をもった住民追放が系統的に進められた。

             こうして〈ユダヤ人国家の対極として、世界に離散したディアスポラ・パレスチナ人が形成され、パレスチナ民族

            主義がパレスチナ問題の克服要因として立ち現れはじめた。

              第1次世界大戦後パレスチナの地域的枠組みが画定されたことによって、ユダヤ人国家建設予定地の中に囲

            い込まれた住民が、自分たちの運命の収奪に抗する闘いの中で、〈パレスチナ人〉となっていった。アラブ民族主

            義を分断しようとするパレスチナ問題は、全アラブ地域に共通の問題を投げかけたが、上述のような特殊な形態の

            植民地主義は、アラブ一般には解消できないパレスチナ人独自のアイデンティティをもまた発展させることになった

            のである。

 

悲劇の歴史

             1917年    バルファ宣言

                       イギリス、シオニストにパレスチナにユダヤ国家の建国を約束。しかし、その前にアラブ人指導者に

                      も同様の約束をしていた。

              1920年   サン・レモ会議

                      第一次世界大戦勝利国の話し合いにより、イギリス委任統治領パレスチナ誕生。

              1947年11月29日    国連パレスチナ分割決議

                      委任統治の失敗を感じたイギリスは委任統治を断念、判断を国連に委ねた。

                      国連は1948年5月15日をもってパレスチナをユダヤ人、アラブ人のそれぞれの国に分割すると決議。

              1948年 5月14日    イスラエル国家独立宣言・第一次中東戦争開戦

                      国連決議に反対するアラブ諸国はユダヤ人国家イスラエルの建国と同時に軍を侵攻させる。

                      しかしソ連の援護をうけたイスラエルはアラブ諸国を退け、逆にパレスチナの80%を占領する。

                      また、パレスチナを追われたアラブ人、パレスチナ難民が発生する。

              1956年    第二次中東戦争(スエズ動乱)

                       スエズ運河を国有化し通行料を取ろうとしたエジプトに対し反発したイギリス・フランスの両軍、エ

                      ジプトからのパレスチナゲリラの侵入を防ぎたいイスラエル軍がエジプトに侵攻しシナイ半島などを

                      占領するが、国連保障理事会決議により停戦。段階的に撤退する。

              1968年    第三次中東戦争(6日戦争)

                      エジプト軍がシナイ半島に進駐したことに対してイスラエルがエジプトらアラブ諸国空軍基地に爆

                      撃をしかけた。制空権を得たイスラエルは圧倒的勝利を納める。 戦後、イスラエルは広大な占領

                      地をパラスチナ難民とともに手に入れた。

              1968年    カラーメの戦い  

                      パレスチナゲリラ・ファタハとイスラエル軍との間での戦闘。イスラエル軍に損害を与えるとともに、

                      パレスチナ人の民族意識が高まる。

               1973年   第4次中東戦争

                      エジプト軍がイスラエルに奇襲をしかけ中東戦争最大の軍事的成功をおさめる。その後イスラエル

                      も反攻し勝利を得るが、イスラエルの圧倒的勝利とはならなかった。また、戦争初期の損害により

                      イスラエル国内にも和平を望む声が生まれる。

               1979年   エジプト・イスラエル平和条約

                      エジプトが条約を結ぶことでアラブ諸国の結束はくずれ、他のアラブ諸国もイスラエルと条約を結んだ。

                      これによって、「イスラエル対アラブ諸国」から「イスラエル対パレスチナ難民」へと視点が変わっていく。

 

中東戦争の解説

              19世紀後半以降パレスチナにユダヤ人国家を建設しようと活発な植民活動を続けたシオニズム運動と、これを新

            たな中東支配の道具として利用しようとした西欧列強の政策に求められる。なかでも第1次世界大戦後パレスチナは

            イギリスの統治下に入った。この下で〈ユダヤ人対アラブ〉という対立図式が設定され、両者の対立はしばしば流血の

            暴動へ発展した。

             パレスチナの騒乱は周辺のアラブ諸国にも影響し,またナチスの台頭により大量のユダヤ難民が発生した。イギリス・

            アラブは共にナチズムの中東への浸透を恐れ、アラブ諸国がパレスチナの問題に介入してゆく。

             第2次大戦後、経済的に疲弊したイギリスには事態を抑える力がなく、パレスチナ問題を国連にゆだねることにした。

            パレスチナ分割を認めないアラブ側はユダヤ人に対するゲリラ闘争を展開、ユダヤ側はシオニストのテロ組織によるエル

           サレム近郊の村を襲撃、パレスチナ住民を虐殺した。 イスラエルとの争いの中アラブ世界を襲ったのは政治変革の嵐で

           ある。エジプトで青年将校団の革命が発生し、国王を追放したエジプト革命。第2次大戦後アジア、アフリカのナショナリ

           ズムが成立し、対ソ包囲網の一翼を担った。

            ナセルのアスワンハイダム国有化宣言を自国の権益への挑戦とみた英仏両国と、ゲリラ侵入に手を焼くイスラエルが

           協議を重ね、イスラエル軍はシナイ半島のエジプト軍を攻撃した。イギリス、フランス、イスラエル3国は米ソをはじめ国際

           世論の非難を浴びて孤立し、停戦・撤兵に同意した。 第3時中東戦争でイスラエルは、東エルサレムを含むヨルダン川

           西岸地区、ガザ・ゴラン高原、シナイ半島を占領した。イスラエル国家は、これによって広大な占領地とアラブのパレスチ

           ナ人を内部に抱えこむ結果となり、再編されたパレスチナ解放機構(PLO)を中心にパレスチナ人の武装抵抗運動が進み、

           〈イスラエル対アラブ諸国〉という図式はしだいに破られていくことになる。PLOはパレスチナ抵抗運動諸組織を基盤に再

           編成され、各地のパレスチナ人の革命化・急進化が進んだ。そこではムスリム、ユダヤ教徒、キリスト教徒が共存する単

           一の民主的・非宗派的パレスチナ社会の建設が目標とされ、イスラエル市民をも巻き込む新しいパレスチナ人の形成が目

           ざされるようになった。

            70年代に入ると、石油、パレスチナ・イスラムなどアラブ世界をめぐる諸問題が国際政治にひんぱんに登場するようにな

           る。こうした情勢の中、サダトエジプト大統領は、和平の行詰りを打開するため、イスラエルに対して軍事的攻勢をかけ、紛

           争の軍事的解決を図ろうとした戦争中、石油輸出国機構加盟のペルシア湾岸諸国の価格引上げ、およびアラブ石油輸出

           国機構の生産削減措置は、世界経済にオイル・ショック(石油危機)と呼ばれる広範な影響を与えた。

            イスラエルはその後、占領地のイスラエル化を促進し78年以降の継続的な南部レバノン攻撃によって国際世論の動向

           に対して抵抗した。82年全面的なレバノン戦争を開始し、レバノンからPLOおよびパレスチナ人武装勢力を排除すること

           に成功した。レバノン戦争によってPLOは大きな打撃を受け、その後内部で路線をめぐる分裂・対立が生じた。しかしレバ

           ノン戦争によって、イスラエルの国論の分裂もまた深刻となり,経済的困難はその占領地政策に重大な変更を迫るものと

           なった。また「パレスチナ人の民族的自決権・帰郷または補償を受ける権利の承認こそ中東和平の前提条件となるべきだ」

           という認識と、中東和平問題の過程にPLOを参加させるべきだという要求とが国際的に広く受け入れられるようになった。

 

平和への転換

1. 1999年までの中東和平

2. 2000年の中東和平

3. 中東研究会の提示する解決モデル

 

1999年までの中東和平への主なプロセス

             1987年    インティファーダ(住民蜂起)勃発

                      イスラエルでの日雇い労働から帰宅するために検問所で待っていたパレスチナ人の列にイスラエル軍の

                       軍用車が突っ込み、4名が死亡し、7名が重傷を負った事件をきっかけにして始まったイスラエル国内、

                       占領地内でのパレスチナ住民による投石運動。これにより、イスラエル国内に厭戦の気分が広がり、

                       和平への道が開けた。

              1991年    マドリード中東和平会議開催

                       ブッシュ(米)大統領とゴルバチョフ(ソ連)大統領の共同主宰のもと10月30日から3日間に渡り開か

                       れた。「土地と和平の交換」の原則のもとにアラブ諸国がそれぞれイスラエルと平和条約を結び、イス

                       ラエルが占領地を返還するという方法で紛争の解決を目指すものであった。

                        結局、パレスチナ問題の解決の見通しが見えず、イスラエル・パレスチナ交渉は暗礁に乗り上げた。

              1993年    パレスチナ暫定自治協定締結

                        9月13日、ホワイトハウスでクリントン(米)大統領立ち会いのもと、ラビン(イスラエル)首相とアラフ

                        ァト(PLO)議長が協定に調印した。その協定には、5年間の暫定自治を実施し、自治3年目からエ

                        ルサレム、パレスチナ難民、安全保障、国境画定などの諸問題に関する最終的地位交渉を開始し、

                        自治開始5年後にパレスチナ問題の最終的な解決に関する合意は発効すると規定されていた。PL

                        Oの一方的譲歩だと言う声がパレスチナ人の中から聞かれたが、歴史的に見て初めてイスラエルと

                        アラブが歩みよりをみせた瞬間であった。

               1995年    パレスチナ拡大自治合意とラビン首相暗殺

                        9月28日、ワシントンで拡大自治合意が締結された。この合意によって、イスラエル軍はヨルダン川

                        西岸の主要6都市と450町村から撤退し、パレスチナ自治区の範囲は拡大した。そして、11月4日

                        に悲劇が起こった。テル・アビブ市役所前の広場で、熱狂的なユダヤ教徒の青年により中東和平の

                        立て役者であったラビン首相が暗殺された。世界は深い悲しみに包まれた。

               1996年    ネタニヤフ権誕生と和平停滞

                         5月29日のラビン首相の後任を決める首相公選でパレスチナ問題について強硬な姿勢をみせてい

                        たリクードのネタニヤフ候補が労働党のペレス候補を僅差で破って当選した。ネタニヤフ首相は就任

                        後すぐに東エルサレムのユダヤ人入植地の建設を許可するなど労働党政権が追求してきた和平プ

                        ロセスを停滞させる政策をした。

                1998年   イスラエル軍追加撤退合意

                        10月23日、イスラエル軍がヨルダン川西岸の13.1%の地域から追加撤退する旨を規定したワイ・

                        リバー覚書をワシントン郊外のワイ河畔で調印したが、ネタニヤフ首相は、この合意の批准に関して

                        の閣内の意志統一ができず、12月に首相の公選および国会選挙を半年間前倒しに実施することを

                        決定した。 1999年  バラク労働党政権誕生と和平プロセス再開 5月4日で暫定自治の期限が

                        過ぎ、続く5月17日の総選挙でバラク労働党党首がネタニヤフ首相を予想以上の大差で破って首

                        相となった。バラク首相が最初に着手したのがネタニヤフ政権の間停滞していた和平プロセスの再

                        活性化であった。

                        9月4日にシナイ半島の南端に位置するシャルフ・アッ・シャイフでムバラク(エジプト)大統領とアブ

                        ドゥッラー(ヨルダン)国王、そしてオルブライト(米)国務長官臨席のもとバラク首相とアラファト議長は

                        和平プロセスを仕切り直すために合意文書に調印した。           

 

2000年の中東和平

             2000.09.08    米大統領、両首脳と会談 クリントン米大統領はバラク・イスラエル首相、アラファト・パレスチナ自治

                    政府議長と相次いで会談したが、パレスチナ和平の停滞打開につながる進展はなかった。

              2000.09.28     イスラエル・リクード党首 イスラム教聖地を訪問 イスラエルのタカ派政党リクードの党首がイスラ

                         ム教の聖地を訪れ、その行為を挑発と見なしたパレスチナ人が警官と衝突

              2000.10.01    アラブ連盟緊急理事会 イスラエルの武力行使を糾弾 パレスチナ住民とイスラエル治安部隊との

                         衝突で約30人に上る死者が出たことを受け、アラブ連盟(21カ国、1機構)は1日、カイロで緊急

                         理事会を開催し、イスラエル治安部隊の武力行使を「犯罪的行為」と非難し、国連安全保障理事

                         会に調査を求める声明を出して閉幕した。 2000.10.04 衝突回避合意、しかし文書調印はなし

                          パレスチナ住民とイスラエル治安部隊の衝突で、バラク・イスラエル首相とアラファト・パレスチナ

                         自治政府議長は、当面の衝突回避には合意したが、正式な合意文書には調印しなかった。

               2000.10.05    新たな「休戦合意」後に銃撃戦、 パレスチナ自治区ガザとヨルダン川西岸ベツレヘム近郊でまた

                         銃撃戦が発生、パレスチナ人が少なくとも2人死亡した。 2000.10.11 国際調査委員会設置問題

                         について、国連事務総長が協議 アナン国連事務総長は11日、前日に続いてバラク・イスラエル

                         首相、アラファト・パレスチナ自治政府議長と個別に会談、事態収拾に努めるとともに、国際調査

                         委員会の設置問題について協議した。 2000.10.11 米国を交えた3者協議開催で合意 アナン国

                         連事務総長は12日未明、イスラエルとパレスチナが、米国を交えた治安当局者協議を同日中に

                         も開くことで合意に達したと発表した。 2000.10.12 群衆がリンチ イスラエル兵士2人死亡 パレス

                         チナ自治区ヨルダン川西岸ラマラで12日、イスラエル軍の兵士4人がパレスチナ人群衆にリンチ

                         され、2人が死亡した。

                2000.10.13   群衆、イスラエル軍と衝突 パレスチナ住民44人負傷 パレスチナ自治区のヨルダン川西岸地区

                         ラマラで、銃撃戦を含む衝突があったほか、各地でイスラエル治安部隊とパレスチナ住民の衝突

                         事件が発生、銃撃により全域で少なくともパレスチナ住民44人が負傷した。 2000.10.14 緊急中

                         東首脳会談、エジプトで開幕 パレスチナ・イスラエルの衝突収拾を目指した緊急中東首脳会談が

                         16日、エジプトで開幕した。会談にはバラク・イスラエル首相、アラファト・パレスチナ自治政府議

                         長の両当事者のほか、クリントン米大統領、ムバラク・エジプト大統領らが出席、停戦合意を目指

                         して断続的に協議が行われた。

                2000.10.17  暴力行為終結措置で3項目の合意を発表 緊急中東首脳会談で、クリントン米大統領は17日、イス

                        ラエル、パレスチナ両首脳が暴力行為終結を呼びかけ、紛争終結の具体的措置を執ることなど、3

                        項目の合意を発表した。

                2000.10.2   目標期限日に衝突続発、死者10人 イスラエルがパレスチナとの衝突停止の「目標期限」としていた

                        20日、ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区ナブルスやラマラ、サルフィトなどでイスラエル治安部隊

                        との衝突が続発、少なくともパレスチナ人10人が死亡した。 2000.10.22 アラブ首脳会議 イスラ

                        エル非難の共同声明を採択して閉幕 パレスチナ・イスラエルの衝突激化を受け、カイロで開かれて

                        いた緊急アラブ首脳会議は22日、「衝突の原因はイスラエルにある」とイスラエルを非難、新たな外

                        交関係凍結を盛り込んだ共同声明を採択して閉幕した。

 

(V.争点)

               中東和平交渉の最大の争点は聖都エルサレムの帰属問題である。ここ最近パレスチナで起きている衝突もここ

              に起因している。 その問題の発端はリクードの党首がイスラム教の聖地を訪問したことである。 リクードはイスラエ

              ルのタカ派政党の内、最有力の政党。現在までパレスチナに対し強硬姿勢をとり続けてきた。その政党の党首がパ

              レスチナ人(ムスリム)の聖地に足を踏み入れたことが彼らにとって挑発行為にうつり警官と衝突し、最近までくすぶ

              り続けている問題のきっかけとなったのである。この後、イスラエル・パレスチナ両勢力の小競り合いが続くが、イス

              ラエル側が鎮圧のために武力(兵器・兵力)を投入。それがさらにパレスチナ人の感情を逆撫でし、どんな和平協議

              でもパレスチナ側は断固妥協案を拒否。現在まで問題がこじれる原因となったのである。

 

モデル1

                そもそも、イスラーム、ユダヤ教、キリスト教共通の聖地である筈のエルサレムを首都として、イスラエルを建国し

               たユダヤ人に非がある様に思われる。その上、シオニストたちが夢見ているのは、民主的なユダヤ人国家である

              。夢を実現させるためにやらなければならないことは2つある。1点目はパレスチナをはじめとする占領地からの撤退

               である。現在イスラエルには80万人のアラブ市民がおり、彼らの人口増加率はユダヤ人のそれを大きく上回ってい

               る状況だ。こうした傾向が続けば、やがてイスラエルの選挙においてアラブが多数を占め、アラブ国家へと変身する

               事態が想定される。これを回避するには、結局アパルトヘイト国家を建設するしかなくなるが、それでは民主的ユダ

               ヤ人国家とはいえないであろう。つまり、イスラエルのユダヤ性を守るためには撤退は不可避の手段なのではない

               だろうか。  2点目はイスラエルの首都エルサレムの解放である。冒頭に書いたとおり、ユダヤ教だけの聖地では

               ないので独占をするというだけで、十分戦争の火種と成り得るからである。エルサレムをヴァチカン市国のように独

               立地帯として中立国とするか、または各国から何名か人を派遣し共同統治という形を取ればいいのではないだろう

               か。  以上の2点を遂行するならば、ある程度は戦争の抑制につながっていくだろう。だが、同じ地球上に住む人間

                同士、お互いに相手への思いやりをもって接していれば争いなどはおこるはずもないから、人間とはなんと業の深い

               生き物なのだろうか。

 

モデル2 

                 百年戦争ともいわれる根深い紛争の解決を目指す新しい中東和平の構想には、どちらの側も完全に優越せず、

               自分勝手な解決を不可能とする「公平さ」を国際社会が保障する仕組みが求められなければならない。そうして、

               ここでいう公平な解決とは、次の3つの条件だろう。

               @イスラエルとパレスチナ人が互いに民族としての諸権利を受け入れ、相互承認すること。

              Aイスラエルは67年戦争以前の状態へ東イェルサレムを含めて撤退すること。

               Bイスラエル国家とパレスチナ自治領が友好的に共存すること。

                このように見ると、初めからシオニズムは純粋にユダヤ人だけの国家を造ることに力を注ぎ、パレスチナのアラブ人

               を追い出して喜んでいたのである。しかも、イスラエル政府は今までまじめにアラブ住民の不満を除き、和解する機

               会を求めたことがないように思われる。 しかしながら、将来イスラエル国家の隣にパレスチナ国家が建設された場

               合、軍事面を重視している安全保障は、自国の安全強化が他国の不安を高め、結果的に自国の安全を損しかねな

               いという「セキュリティ・ディレンマ」を招きかねず、こうした思考からいち早く抜け出し、ともに経済関係などを通じてお

               互いに相手方を必要とするようなバランスの取れた相互依存体制を模索する必要がある。また、イスラエル国家が

               、この国がない状態も時よりも中東の安定に必要だと近隣のアラブ諸国から自然に受け入れられるようになれば

              、この地域において初めて本当の平和が訪れ、パレスチナ問題とともにユダヤ人問題も最終的に決着を見ることとな

               るだろう。

 

むすびに

                 戦争とは本来起こるべきではない問題です。しかし世界にはさまざまな問題を抱えている国が数多く存在して

                います。平和を実現するには戦争をただ否定するのではなく、戦争に至る理由を学び、知ることが重要であると

                思います。 中東は現在地球上で最も緊迫している地域の1つです。特に地中海東岸に面しているイスラエルでは

                パレスチナとの領土問題で交渉・紛争が今なお繰り広げられており解決の糸口はまだ見えていません。悲劇から

                は悲劇しか生みません。中東諸国だけの問題としてだけでなく世界的問題として和平への道を模索し続けてゆく

                ことが21世紀を「平和の世紀」にするための必要条件であるといえます。 今回私たち中東研究会ではイスラエル

                との間で起こった中東戦争の歴史、また現在も継続中のイスラエル・パレスチナ間における和平交渉の流れを発

                表しました。

                  イスラエルはナチス・ドイツによって迫害されたユダヤ人の国家としてエルサレムを中心に誕生しました。しかし

                エルサレムはユダヤ教だけでなくキリスト教、イスラム教の聖地であり、またエルサレムに住んでいた人々から土

                地を奪う形となったためアラブ諸国は反発し現在に至っています。テロ活動やそれに対する報復も繰り返され、9

                月末から始まった衝突も解決へは向かっていません。 今回より多くの方に知っていただけたでしょうか。今後中

                東問題、そして中東和平に興味を持っていただければ幸いであると思います。

 

以上、2000年創大祭展示内容でした。

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